都会から田舎へ。自然と人とともに生きる暮らし

チャンスは今しかないかもしれない。
舵を大きく切った海外移住生活

子育てをしながらP&Gで会社勤めを続けていた田中さん。アメリカ本社からきた広報ディレクターのもとで働きつつ、プライベートでは自然農法や食についての造詣を深めていった彼女は、入社から10年後にある大胆な決断をします。

「しばらく海外で子どもたちと暮らそう、と思ったんです。中でもニュージーランドは、旅行会社時代に滞在したことがきっかけで惚れ込んだ国のひとつでした。今でこそニュージーランドのオーガニック製品はたくさん日本に入っていますが、当時は日本の薬事法に引っかかるようなものが大半で、その良さがほとんど知られていなかったんです。でも今後は、日本でもオーガニックのコスメやアロマテラピーなどがきっと注目されると考えていました。年齢はすでに30代後半。個人的にも趣味として昔からハーブの栽培をしていたこともあり、子供たちを連れて行けるとしたら今がタイミングだと思ったんです。現地で具体的にどんな仕事をするかはあまり考えていなかったのですが、移住先で偶然現地のラベンダー農家の方に出会いました。この出会いをきっかけに、日本向けの製品を作るためのコンサルティングのような仕事を始めるようになったんです」

その後ニュージーランドで1年間暮らし、現地でしか手に入らない商品を日本に紹介するなどしていた田中さんは、再び転機を迎えました。父親ががんに倒れ、急遽日本に帰らねばならなくなったのです。

「芦屋に戻って3ヶ月後に、父は亡くなりました。そのころからPRの仕事を日本でも手がけるようになっていたのですが、どうせ広報をやるなら東京の方が面白いだろうと思って、ここで人生で初めて上京したんです。ちょうど38歳のころでしたね。最初は広報代理店に勤め、ラグジュアリーブランドや日本に進出してくる外国企業などのPRをしていました。そのうちに独立して、化粧品や外国車を含むいろいろなラグジュアリー系ブランドなどの仕事を手がけるようになり、法人化もしています。思えば、日常で植物や自然に触れ合わない生活をしたのは、人生であのときが初めてだったかもしれません。毎日がプレゼンやレセプションの繰り返しで、その度に上から下までキレイに着飾って出かけるっていう。それはそれで勉強にもなったし、たくさんの良き友人にも出会えましたよ。だから面白い毎日ではあったんだけど、数年したらちょっと疲れてきてしまったんですよね。だんだんモノに興味がなくなってきて、食文化や旅とか、そういう分野のことをやりたいと思うようになって。それが40代半ばのころです。更年期だったのか体調にも不安を抱えていました。そんなときに、桜の友達の家に招かれたんです。海も山も近いし、食べ物もおいしい。私がいま求めていたのは『ああ、ここだな』ってすぐに思いました」

 

桜との出会いによって
仕事の内容も暮らしも一変

紹介された果樹園付きの家をふたりの息子たちと片付け、物件に出会って2ヶ月後には世田谷のマンションを解約して引っ越し。それからは、暮らしも仕事も目まぐるしいほどの勢いでどんどん変わっていったといいます。

「まず、暮らし始めて1年間で、桜にたくさんの友達ができたんです。計2年間ほど果樹園とゲストハウスを営みながら、移住者や地元の方たちと交流を深めていきました。そのうち東京の友人たちも果樹園に集まるようになり、地元の食文化に関わるような仕事も始めて。そんな中で新たに出会ったのが今暮らしているログハウスでした。ここは元々イベント会社の社長さんが住んでいたのですが、その方が転居することになり、私が森のオフィスとして借りることにしたんです」

それから3年余りが経過し、相変わらずPRの仕事を続けながらも、この地に惹かれて訪れるさまざまな人を対象とした食のワークショップを行うなど、アクティブに動き続けている田中さん。

「収入は東京にいたころに比べるとかなり減ったけれど、子供たちももう独立しているので自分が食べていくには充分。そもそも高い家賃や、レセプションに行くための高価な靴や洋服が必要なくなりましたからね(笑)」

 

大好きな猫はいつの間にか増えて6匹、愛犬は2頭。たまの休日には、息子たちがそれぞれのパートナーを連れて、あるいは日本中、世界中の友人たちが遊びにやってくるとか。

「近くの森で友人の結婚式をしたこともありますよ。うちから軽トラで料理を運んでね」

仕事で海外出張に出ることも多い田中さんですが、そんなときは近所の友人たちや息子たちがペットの面倒を見てくれるのだそう。帰国したらお土産話とともに得意の料理をふるまうそうです。そんなギブ・アンド・テイクが自然と日常の中に生まれていく暮らしは、東京にいたころに比べるとストレスがほとんどないようです。

 

これからも仕事を楽しんで生きたい。
だから場所にはこだわりたくない

「辛かった体調は、ここに来たらいつの間にか治っていました。ただ私の場合、桜にずっと居続けるかどうかはまだ分かりませんし、東京に会社がありますから、田舎に引きこもるという感覚で暮らしているわけでもないんです。芦屋だって東京だってやっぱり好きですし、それぞれに大切な友人たちもいますからね。たったひとつの好きな場所を見つけて、そこで自給自足で暮らすという人生ももちろん素敵なもの。ただ私は、どこに暮らしていたときもその場所を気に入って自分なりに楽しんできたけれど、しばらくすると次のところへ行きたくなっちゃう。きっとそういう性分なのでしょうね(笑)」

世界中のあちこちへ飛び立つチャンスがあるPRという職業。そして、幼い頃から鍛えてきた、自然の中で暮らしていくためのスキルと食に対する感性。この確固たる根っこがあるからこそ、今後の人生にも特に不安は感じていないといいます。

「例えば東京からの仕事がなくなったとしても、今の自分ならどこでも暮らして行けるんじゃないかと思っています。だったら、その時々で興味が湧いたりご縁が繋がった場所で、好きなように暮らしていけるのが、私にとっていちばんの幸せなのかなって。むしろ今は、20代くらいの若い人の方が、田舎での自給自足、隠居生活みたいなものに憧れてたりしますよね(笑)。その人の価値観だからそれはそれでいいと思うんだけど、私はやっぱり東京や海外で仕事をすることの面白さを知ってしまってるから、それだけじゃつまらなくなっちゃう。むしろこれからは、子育ても終えてますます仕事中心で生きていくことになると思うんです。少なくともオリンピックまではこの家にいるつもりだけど、きっと数年後には、また違う場所で暮らしているんじゃないかな。東京に戻るかもしれないし、海外のどこかで気に入った街を見つけるのかもしれない」

 


 

森で暮らす

「森の中に住みたかっただけ」都会から離れ、森で自然と共存する田中さん。森での暮らしのコツは、自分が楽しめることをやること。森を楽しみ、森から学ぶことで、豊かな心が育まれる。

「原始的な暮らしから文明に少しずつ近づいて、あたかも人類の歴史を辿っているような(笑)。最初は家もなかったし、森の開拓から始めたんです」。
そんな「森の暮らし」を10年かけて作ってきた。

本人が「第3の道」と呼ぶその暮らしぶりは、過去に戻るでもなく、未来に進むのでもない。現代文明の先に向かうのではなく、別の文明に向かっているような、そんな感覚だという。
自分で描いた未来に縛られるわけでもなく、その時々の欲求に素直に従った結果が、現在の暮らしなのだ。

「森の中に住みたかっただけなんです。子供に一番良い刺激がある、土の感覚がある、そんな暮らしがしたかった。
東京・新宿という都会暮らしの中で、実は4歳〜6歳の3年間だけは東京の奥多摩に住んでいたんです。
その幼少時代の記憶なんでしょうか、しばらく森のガイドもしていたんですが、森のスゴさや私たちが森に生かされていることは、頭でわかっていても身体ではわかってなかったんですね。知識はあっても、体感ではなかった」。

田中さんにとって森の暮らしとは、森に学びながら、人間として成長していくことなのかもしれない。

 

都市=消費の文化
森=生産の文化

「我が家の子供たちは、暗闇も平気だし、楽しめる強さがある。水も米も味噌もあるし、肉はその辺を走り回ってる(笑)。
都会は消費の文化ですが、森の中は生産の文化なんです。なくなればまた作ればいいだけ。震災時には、森で暮らす強さを実感しました。だからこそ、震災支援にも力を入れました」。

森を切り拓き、種を蒔くと面白いように芽が出て、やがて食べられるまでに成長した。
「食べられるものは自分で手に入れられる」……その想いで、米や大豆、麦も作り始めた。鶏やヤギ、そして馬も飼い始めた。そうこうしているうちに、知らぬ間に自給率が上がっていったのだという。

ただ自分が楽しいからやっている。だから子供達に手伝いを強要することはしない。
「子供たちはただの労働力ではない。農家の子供達が、農家はキツイ、農家になるのは嫌っていうのは、そんな意識を、子供の頃に焼きつけてしまっているから。
我が家の子供たちは、ゲームより羊やヒヨコと遊んだり、餌をあげたり、野菜を収穫する〝リアル〞を楽しんでいる。今の暮らしを楽しめれば、将来もきっと楽しんでくれるでしょ」。

子供たちは土に触れ、自然の恵みを感じることで、森とつながっているのだ。

 

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